私にとってのSDGsは、一言で言うならば
「分断を癒し原点を振り返るきっかけ」。

小学生の時に、担任の先生が言った何気ない一言、
「もともと日本に英語のNatureに当たる『自然』という言葉は存在していなかった。」

これがなぜかずっと自分の奥深くに棲み続けている。
どうもココが私にとってはすべての始まりであり、源である気がする。

うまく言葉で表現できないが、上述の事実を聞いたとき、何かストンと自分の中に入ってきて誇らしくさえ感じたその感覚が今も体に残ってる。きっと今でいう「肚落ち」の瞬間なのかもしれない。

この「自然」という言葉には、大きく二つの意味があるといわれている。
一つは上述の「しぜん」。英語の「Nature」の訳語としての意味。この「Nature」は、「人工」に対し存在する「物質的」な「自然」であり、「人」対「自然」という対峙がそこにある。

もう一つの意味は「じねん」。無為自然を意味し、物事があるがままに展開していくさまや、本来の姿を示しす「状態」を示す。

前者の「Nature」の訳語としての物質的な「自然」を口にするときでさえ、日本人の感覚としては、その中にひょっこり「人」が含まれていても、違和感を感じる人はそう多くないかもしれない。

いずれにせよ、日本人の感覚の中に、「人」対「自然」という概念は、そもそもないのではないか。

この対峙がないゆえに、「人」も大きな世界の中の一部であり、他の存在とつながっているという感覚に大きな違和感がない。日本には、自分の行動がまわりまわって自分に戻ってくるという意味で「情けは人の為ならず」という「つながり」を示す表現があったり、目に見えないし科学的・論理的に説明できないけれど、何らかの「つながり」があると感じるときに「縁」という言葉を日常的に使ったりする。だから、日本人の根幹には「世界はつながっている」という概念が、元来しっかり刻まれているように、私には見える。

社会を機械的システムとして取り扱い、そのメカニズムを分析することで、アウトプットを操作・制御しようとするいわゆる機械論パラダイムがこれまで大きな流れを作ってきた。日本も例にもれず、産業革命以来大きく加速した効率化やシステム化、そして論理的思考を基にした体系的で目に見えてわかりやすい仕組みを、積極的に取り入れてきた。しかしその結果、見えないところに存在し、静かにつなぎ役を務めてきたものたちがそぎ落とされ、分断が進んでいる。人は、目に見えないモノの価値を感じ取る力を失いつつあり、他者に対する受容力も落ち、孤立が加速している。

このようなことが世界中に蔓延している今、このタイミングでSDGsがもたらされたことに「物事があるがままに展開していくさま」の力を感じずにはいられない。
そして、この「つながり」を想う時、私は日本人が世界に貢献できる可能性について考えずにはいられない。

 

グローバル展開 コーディネーター
松山 亜弥
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