「SDGsの本質とは?」。この問いを目の前に置いた時、「SDGsを何としてとらえているのだろうか?」という次の問いが生まれてきました。それはあまりにも多様な観点があり、複雑に絡み合っていて、集合体のようなイメージでした。言葉に表現されていない感覚的なものをあえて言葉で表現することで、SDGsが私たちに語ろうとしている本質がこんな感じではないであろうか、ということを次のように表現してみました。

▼既存の枠から出て新たな可能性へ
▼私の一致感から創られる世界
▼ 「他者と自分」から「私たち」へ
▼次に進むための道しるべに
▼SDGsが教えてくれようとしていること

既存の枠から出て新たな可能性へ

「SDGsの導入事例はありますか?」

企業向けのワークショップでよく聞かれる質問である。もちろんこの質問が悪いわけでもないし、事例を知ることで新たな取り組みにつながることもたくさんある。

ただし、トランスフォームという観点から考えた場合、事例はチェンジ、すなわち色や形が変わるような「レベルの変化」につながる可能性は高いが、「原型をとどめないレベルの変容(トランスフォーム)」につながる可能性は低いだろう。なぜなら、事例は過去を土台にした積み上げ、過去の延長線上にしかなく、全く違うものが生まれる可能性は極めて低いためである。

トランスフォームと同じような概念にイノベーション(技術革新)がある。これは、今まで誰も思いつかなかった物やサービス、価値を生み出すことを意味する。イノベーションを生み出そうとする時に、「イノベーションの事例はありますか?」と質問すること、事例を探すという発想そのものが、“誰も思いつかないこと”を生み出すのを遠ざけてしまうのではないか。

つまりトランスフォームするということは、前例のない誰も予想がつかない領域に向かうもの、今まで持っているものが役に立たずすべてを捨てるくらいの感覚のもの、ゆえに自分を失うかもしれない恐怖が伴うものかもしれない。

トランスフォームしてみるとはじめて気づくことがある。それは、これが正しいと思っていたこと、これだと信じていたものがそうではなかったということだ。

新型コロナウイルスは、我々の世界をある意味強制的にトランスフォームした。テレワークや時差出勤、キャッシュレス化、ハンコ文化の解消、病院のオンライン診断など、今まで必要だと言われて進めようとしてもなかなか進まなかったことが数か月の間に激変し、さらに変わり続けている。

トランスフォームしてみると気づくことがある。自分たちがどれほど既存の枠に囚われていたかを。皮肉なことに、この囚われの枠はその外側に出るまで気づけないものでもある。

枠を出る時はモヤモヤする。今まで経験したことがない感覚だから。そんな時こそがトランスフォームするチャンス。モヤモヤする気持ち悪さと共に進む時。

枠を出るのは怖い。「これが自分」だと思っていたものが崩壊する感覚かもしれない。その恐怖に気づかないために思考がグルグル回る。「メリットがないからやらない方がいい」「それは間違っている、こっちが正しい」。そんなふうに正当化したくなった時こそが、実はトランスフォームするチャンス。息を止めて「えいっ!」と飛び出す時。

トランスフォームとは、自分が気づいていない囚われの枠から出ること。
そこにこそ無限の可能性があるから。

 

私の一致感から創られる世界

SDGsではアウトサイドインという考え方が重要だと言われている。社会のありたい姿から、自分たち、自社がやることを発想する考え方だ。過去主流だった自社ができることや、過去の実績をベースに発想するインサイドアウトの反対の考え方である。

既存に囚われないトランスフォームするためのアプローチとしてとても素晴らしい。しかしSDGsの本質は、インサイドアウトの先のアウトサイドインのさらに先にあるインサイドアウトではないかと思う。

ここでいうインサイドとは私である。それも私の中にある「これだ、という一致感」。この一致感を「やりたいこと」と言うこともできれば、「情熱」と言うこともできる。「願い」と言うこともできれば、「意図」と言うこともできる。「これだ」という自分自身と一致した感覚である。

アウトサイドインで発想した「あるべき」姿はとても素晴らしいが、その理想に自分自身の内側にある「これだ」という感覚が一致していないとどうなるだろう? どんなに素晴らしいものやサービスが出来ても、何か物足りない、欠けた感じになるかもしれない。

なぜなら、SDGsが目指す持続可能性は社会や世界だけの持続可能性ではなく、自分自身も含めた社会や世界の循環だから。

自分の一致感を大切する、そこからの発想・行動からこそ循環する世界が創られるのかもしれない。

 

「他者と自分」から「私たち」へ

SDGsは2016年から2030年までの15年間の行動計画であるが、SDGsができる前の2000年から2015年の15年間にも行動計画があった。これをMDGsという。MDGsはMillennium Development Goals(ミレニアム・ディベロプメント・ゴールズ)の頭文字である。

ゴールの内容もSDGsとは多少違うが、根本的な違いがある。それは「他者と自分」から「私たち」という考え方の変化である。

MDGsの発想の起点は、発展途上国に対して先進国が支援するというものである。言い換えると“他者”である発展途上国の問題に対して、先進国の“自分”が支援するという構造である。

このように表現するのは普通なように感じるが、この表現をもっと掘り下げてみると、発展途上国に問題があり、先進国には問題がない、と言っているようにも聞こえる。しかし、実際には世界はつながっている。例えば、先進国での大量消費、より安いものを求める行為が、発展途上国の労働賃金をより低下させたりしている。つまり、先進国が加害者にもなっているのが事実である。

一方でSDGsは17の目標は自分たちの課題でもあると定義し、それらを自分たちの問題として解決していこう、という取り組みである。SDGsとは「他者と自分」から「私たち」へ変化した瞬間なのだ。

このような変化を人の成長に置き換えて考えてみると、人が成長する過程で二十歳くらいになると、他者と自分の違いを明確にし、自己を確立すると言われている。しかし、さらに成長すると晩年には自己超越、つまり自己を超えた全体性を確立すると言われることもある。

つまり我々の世界がMDGsの自己確立の過程を超えて、SDGsの全体性に向けて歩み始めたと言える。SDGsは、まさに自己の先にある全体性への入り口と言えるだろう。

 

次に進むための道しるべに

SDGsの目標は数値化されて、達成度合いを見える化する試みである。明確な数値目標と共に、2030年に向けてその目標を達成する試みはとても素晴らしいと思う。それは、我々の世界が進化成長していく上で必要なステップである。

とは言え、2030年になると次の景色が見えてくるのではないかと思う。

SDGsの目標が数値化される過程で、失われるものがたくさんあったのではないかと思う。

それは「感覚的なもの」。感覚的なものとは、なんとなくいいとか、しっくり感、もしくは直観と言えるかもしれない。

人間だれでも数字やロジックではどう考えてもAの方がいいのは分かっているのに、感覚的に直観的にしっくりくるBを選択した経験があるだろう。まさに、その感覚である。

数字やロジックでは表現されないものは、実はビジネスの世界にもビックリするほど広まってきている。感性思考、デザインシンキング、マインドフルネスなど、10年前には考えられなかったタイトルの本が本屋さんのビジネスエリアに並ぶ。

科学が進化したことでマインドフルネスが脳科学的にも効果があることが証明され、ビジネスにも取り入れられはじめているが、日本では座禅として古くから知られている。座禅の良さは科学的に証明されていなくても、日本人の私たちには心を整える方法として自然に受け入れられてきた。感覚的にいい、と知っているからである。

2030年に向かって世界一丸となって数値目標を追いかけるからこそ、その先にある数字で表現されないものが見えてくるだろう。今の科学ではまだ解明されていないが、感覚、感性、エネルギー感で受け入れられるもの、人であれば誰もが持っている、知っているものを。

SDGsの数値目標を達成することで、SDGsは我々が次に進むべく道を示してくれるであろう。

 

SDGsが教えてくれようとしていること

天才物理学者アルベルト・アインシュタインが言った。

「我々の直面する重要な問題は、それをつくりだした時と同じレベルの意識によって解決することはできない。」

SDGsは我々が直面する多くの重要な社会課題を見せてくれる。
そしてアインシュタインは、このような課題を解決するためには、我々の意識の進化が必要だと言っている。

それは、それぞれの課題があまりにも複雑に絡み合っているため、1つの課題を解決したとしても別の課題が発生する。そのため、同じレベルで何かをすることで解決できる課題はそれほど残っていないのかもしれないからである。

このような状況で重要なことは、何をやるかというやり方だけではなく、どんなあり方、どんな意識で世界に関わるかであるだろう。

我々自身の意識の進化、あり方の進化こそが、SDGsが教えてくれようとしていることなのかもしれない。

 

共同創業者/共同代表
村中 剛志

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